平成最後の日に

令和に寄せて

なかなか思うようにはいかず

去年の10月に思い立ったように植え替えをしたクスノキ君は、半年を経てご覧のような痛々しい姿になってしまった。葉の枯れ果てた部分を注意深く観察すると、枝ぶりが北東から東を経由して南東へと面する部分で痛みがとりわけ激しい。北風の通りみちである。ここに乾いた寒風が吹き付けた。もともと庭にあったサルスベリの下に生えてきたものを、庭の真ん中の何も遮るものがない所へ移動した。自然界では幼木は決まって大樹の影で育まれる。もっとそこを留意すべきだった。植え替えをあと一年〜二年待ってやってもよかった。勢いが先走ってしまったと少し反省している。あまり大きくなり過ぎても、上手に根を傷めず(サルスベリ共々)ほじくり返す自信がなかった。すでに直根は地面に30cm以上も深く伸びていた。なるほど、これなら風に強いわけだ。幼木といえど根を張る力は突出している。完全に枯れ死にしなかっただけでも運があったとみるべきか。しかし、まだ新芽が出ず状況は予断を許さない。実はもう一本の幼木があって、そちらは裏庭の軒下にあったため、春を迎えて新芽が出てきていた。ところが、植え替えの時に直根の先を誤って切ってしまい、1週間で全体が枯れ果ててしまった。種から育った木の直根を切るのは厳禁なのだと知った。何事も経験か。至らない初心者の残念な手際のために、ごめんよクスノキ。ほら、暖かい季節がやってきたよ。君のとっても大好きな。

私は日本人だと思っている。ところが、どうもこの感覚はずいぶん人によって違うようである。大学への進学を機に上京して20有余年、故郷の茨城県石岡市に帰ってきて時計修理の店を始めたわけだが、それはたまたまこの地に生まれた縁あってのこと。ご存知私の店は店といっても直接の来客は受け付けておらず、もっぱらインターネットを経由してのやりとりである。客は当店のページをみて、メールで連絡をとり、宅配で時計を送る。これは宅配や郵便の届く地域であれば、どんな山奥だろうと提供可能なサービスだと自負しており、極論すれば地球の反対側で店を開いたとしても(申し込む人がいるかどうかは別として)同じサービスが提供できると考えている。よく言わせてもらえば、それは”地球人”とすら呼べはしないか。

私の住むこの街にも自治会のようなものがあり、昨日は隣の奥さんが回覧板を持ってきた。たまたま庭にいた私と鉢合わせたのが、よほど計算外だったのだろうか。回覧板持ってきました、の次に出たセリフが次の通りである。「この土地100坪以上あるかしら。アパートでも建てないと、税金とられちゃう」ああ、そうですか。あなたがこの土地の主でもなければ税金を払ってくれるわけでもないのに、ずいぶんとまあご挨拶ですね。「ここに来る人はみんな勝手なことを言う。やれ駐車場にしろだの、家建てろだの」私はわざとぶっきらぼうな調子で応えてやった。これが田舎の何気ない会話のやりとりだ。他愛もなく平気で他人の事情に首を突っ込んでくるが、深い意図などないのである。この人の感覚は日本人というより、茨城人、いや石岡人という感覚すらあやしい。半径50mの人間関係だけで生きているような奥さんである。

お隣さんとして私が生まれる前も含めて半世紀に渡るお付き合いなわけだが、新興住宅地だったはずのわが家の団地もすっかりこの街の社会に組み込まれているのを感じる。どうも私は近所の人々のコミュニティには馴染めない。昭和の高度経済成長期にこの団地に移り住んできて、イケイケドンドンでモーレツ社員で、結婚して子供を産み育てる核家族という、戦後の新しいライフスタイルを謳歌してきた団塊の人々が中心であり、私はそのジュニアというわけだ。団塊世代とジュニアでは考え方が全く異なる。ジュニアの同世代は私と同じように考えており、半数は都会に出て行ったまま帰らないか、さらなる新天地でそれぞれの生活を始めている。地域に残っている人たちのさらに半数くらいは結婚せず私のように独身のままのようであり、残りはひきこもっているような感じの人も少なくない。時代は変わった。隣の奥さんもずいぶん歳をとった。旦那は公務員で娘が二人。上は嫁にいって子もいるが、下のほうは居候したまま。奥さんはこれまた典型的な昭和のステレオタイプの専業主婦であり、旦那が朝早く車で出勤して、奥さんが炊事洗濯など家事を担って家庭が回ってきたわけだ。今は退職した旦那と居候の娘と三人で暮らしているのだろうが、これを年金と貯蓄でやりくりしているのだろう。娘はひきこもってどこにも行かない。仕事もしていないようで先々ちと心配だ。それを知っている私には、先の奥さんの吐いたセリフの真意がよくわかる気がする。あれは私とウチの土地に向けられて出た言葉ではない。苦しい自分たちの懐事情を訴えたに過ぎないだろう。年金暮らしになると、わずかな税金でも徴収されるのが身を裂かれるように感じるのだろうか?そして、土地を有効活用して利益をあげようと考えるあたりが、いかにも昭和世代の発想なのだ。それらが結びついて口を突いて出てしまったのだろう。薄暗くなって、ブラインドカーテンが降りる時刻をわきまえて、いつも周到に夕暮れ時ときまって回覧板をポストにぶち込む算段が、庭の真ん中でぷかぷかとタバコを吸ってくつろぐ男に阻まれてしまい、泡を食ったに違いない。

100坪もあったら、都会なら家2軒分である。東京暮らしも長かった自分にはそのあたりの事情もわかるし、それだけの敷地をまるまる庭にするというのは、平均的な収入の層からすればかなりの贅沢に映るかも知れないことも理解する。でも都会と田舎では地価に雲泥の差があり、固定資産税などは比較にならない。もっと田舎にいけば同じ税金ではるかに広大な敷地を有することも可能だろう。あとはインフラや居住環境などと天秤にかけて、誰もが自分に見合った落とし所を見極めているだけの話。

昭和の登り坂をやってきた人たちは言う。どんどん増やせ。カネも子孫も右肩上がり。だが果たしてそうか?平成になって従来の価値観を覆された私の世代は懐疑的だ。バブルの崩壊を境に経済のみならず、その後を生きる世代とは決定的な感覚の違いがある。人口動態はとっくに頭を打って、少子高齢化は加速する。ニュースでもメディアでも散々取り上げられているはずが、昭和世代の知性にはもはや届いていない。いまだに三十年以上前の価値観のまま、これからも世の中回っていくかのように考えている。(そうとしか私には見えない)老人ばかりの近所の人間たちとやりづらいと考える大きな理由になっている。彼らも自分たちの価値観に合致しない最近の若者をみて、理解ができず気味が悪く感じているだろう。

そもそも日本人は一億人もいらないと私は考えている。この連休で目にするのは何だろうか。それは美しい景色でもなければ、のびのびできる場所でもない。人。人。人。どこに行っても人だらけ。違うだろうか?だから私はどこにもいかない。休業というのは、世の中の流れに合わせているに過ぎない。もっと言うと、地球上の人類は多すぎる。どこかの国の乱獲で、これまで誰もが食べられていた魚が高騰して手に入らないなんていう話は、そもそもおかしいと気づくべきだ。人口を増やし続けなければ豊かになれないというのは、それは途上国から先進国に切り替わる過程の未熟な社会においての話とは学者先生も教えるところ。規模が大きければチャンスがあるというのは幻想に過ぎない。国民一人あたりのGDPでは日本人よりずっと豊かなシンガポールやルクセンブルクのような国の繁栄は、人口の多さでは説明がつかない。これからは一人一人の生産性の高さと効率の良さが栄枯盛衰の鍵を握る、とも言われている。もっと日本人は給料をもらわなくてはならない。人口が減っていく以上は、一人頭が稼ぎ出す数字をあげなければ、福祉政策はたちまち行き詰まり、大量の老人は餓死するという恐怖の結末が待っているだろう。現役世代は少ない人数で多くの老年人口を支えなければならない。

平成が端的にITの時代だったとすれば、令和ではAIの世になるだろう。誰もができるような単純労働は、ほとんどが人工知能とロボットにとって代わられる。そういう社会においては、人間にしかできないもので、かつ価値のあるものでなければならない。時計修理はどうだろうか。あるアメリカの有名なところが将来なくなっている職業のひとつに時計修理を入れたそうだが、そんなものは机上の空論だと思う。だいたいネジも自分で回したことのないような人間に限って、そういう予想を立てる。人間はいつも間違いを犯す生き物だ。いかにAIが素晴らしく、ロボット技術が超速の進歩を遂げようと、私のやっている複数台組み上げのようなサービスを凌駕するものは今後30年以内にはまだ現れまい。パーツ交換にしろ、流通網上にモノがないものをどうやって直すのか?その場でAIが瞬時に時計の構造を自動的に全て理解し、交換が必要なパーツをその場で超高性能なCNCとの連動で1個から作りだして提供でき、かつ熟練の時計師に劣らない調整技術で組み立てできるなら、それは白旗に違いない。そしてここがポイントだが、それだけの設備と材料と揃えて、人間がやる場合と比べて圧倒的に安くなければならない。だがその水準に達するにはもう少し先の話になるだろう。その頃には車は全て自動運転になって、人間が免許を取って運転するのは公道上では全面的に禁止されている世の中になっているに違いない。(!)車の運転よりもはるかに難しいのが時計修理である。むしろ時計を直したいという需要のほうが先になくなってしまい、そういう意味で時計修理という職業がなくなってしまう可能性の方がずっと高そうだ、、、と見ている。

まだまだAIは出始めたばかりの黎明期の技術にすぎない。こちらはその上をいった価値を生み出しているのだから。同様に、そうそう人間の出番が簡単に取って変わるとは思っていない。大量のデータを瞬時に分析するとか、24時間不眠不休で働けるとか、確かに部分的にはAIは人間の能力をはるかに超越していることは認めるし、そういう部分はすぐに機械が人の代わりにやってくれるとは思う。我々人類は賢く機械を利用すればよいのだ。現に私は私の生まれた頃には考えられなかったような方法でビジネスを行なっている。パソコンとネットさえあれば、ほとんど何も必要がないほどに。AIについてもたぶん同じことだと思う。上手に取り入れたところが勝ち組となって、何もせずただ見ているだけでは負け組になってしまうのだろう。機械が人間を食い物にするというどこかぬぐいがたい不安があるとすれば、そこではじめて人間が生きるという意味と価値について問い直されることになるだろう。

平成の30年を振り返って、思うところは人それぞれ。色々あると思う。貴乃花はこれまでの相撲人生に区切りをつけ、今後は童話作家になりたい旨の発言をした。意外に感じた人も多かったと思うが、私はひどく合点がいっていた。なんにしろ頂点を極めた人が思うことにはある共通点がある。次世代への願いというか、自分を超えていくような人材の登場を願っているし、そこへの橋渡しをしたいと思うようになるものだ。とりわけ幼少の頃に受ける影響というものは、その後の人間形成に重大な影響を与えることが知られてきている。平成の偉大な横綱もきっと肌で感じるものがあったに違いない。次世代の社会を担っていくのは今の子供達であり、社会の発展の基は教育にあると。

だが現実はどうか。学級崩壊なる語が生まれて久しく、完全に時代遅れの横並びの教育システムは、実情にまったく合致していない。学級などという無用のコミュニティは陰湿ないじめの温床となり、毎年何十人何百人という子供が自殺する。こんなくだらないことを一体いつまで続けていくのだろう?気づいている親は日本のカビの生えた教育システムなどにとっくに見切りをつけて、質の高い私学や外国の学校で我が子を学ばせている。ただ好きだからという理由で結婚して子供作って能天気に回りと歩調を合わせていればよかったのは昭和まで。とにかく大学さえ出ればまずまずの給料にありつける時代はとっくに終わりを告げたのだ。だが、そのことに一般の大半の人たちは気づいておらず、むしろ不幸は加速しているようにさえ見える。

猫も杓子も国語算数理科社会ですべて測れるような偏差値教育では、ごく一部の上位エリート層をのぞけば、もはやAIに太刀打ちできなくだろうことは今後目に見えている。そんなことを小学校中学校までならともかく、高校大学とみんながみんなやるべきではない。学問はもちろん人類にとって重要なことだが、人間の価値は学問の得手不得手では決まらない。もっとほかに人間にしかできない価値はいくらでもある。そして、特技は人によってそれぞれなのだから、自分は学問には向いてないとわかれば、さっさとスクールアウトして、より自分の人生設計において有利となる技能なり素質を伸ばす方向にシフトしたほうがずっといいに決まっている。ただし、やるからにはその分野で世界一を目指すつもりでやることだ。それは学問であれ他のことであれ同じ。競争社会であることに変わりはない。

そんなことはエラそうにあなたに言われなくても分かっているんだ。きっとあなたはそういうだろう。本当はみんな気がついている。だが、自分の力ではどうにもならない。諦めて今まで通り、とりあえず流れで。そんなのやめようよ。少なくとも私には今の日本の壊滅的な状況をみて、自分の子孫など残したいとは思わない。

しかるに今後『世界で』『地球人として』『AIに負けず』生き残っていく人材に育て上げるためには、いずれにせよ莫大な養育費が必要であり、それを捻出できる見込みもなく、世の中に対して幻滅している私のような人間は、結婚もせずお一人様でもやっているしかないのである。それが人口減少に結びつけば、なお私の考える理想の総人口に戻っていくので、今後の日本のためにはむしろ好都合なことだと、せめて慰め感たっぷりのつぶやきを自分にかけているだけかも知れないが。本人は少しも寂しいことだとはおもわず、お一人様の暮らしぶりを満喫しているのだ。100坪の庭の真ん中にクスノキなんかを植えたりして、その成長をその他にも植え始めたたくさんの樹木たちと一緒に見守りつつ。この頃は毎朝の日課に木を見回っている。毎日、少しづつだが変化している。そういうものに気づいて、ささやかな喜びを見出す日常が楽しくなった。

いずれは私の住むこの団地も半数は空き家になるだろう。人が少なくなれば、相対的に余った住宅や土地の価値は下がるはずである。そうなったとき、近所と瓦を付き合わるようにビッシリと立ち、一人か二人用でよいところ二階建ての6LDKのようなショーワの家族向け住宅がどれほど競争力のある中古物件なのか、甚だ疑問である。それより、平屋建てでも間取りのゆったりした昔ながらの数寄屋づくりの和の家で、広い庭に公園のような四季を彩る花木がついているような風流なお家だったりしたらどうか?私が仕掛ける未来への壮大ないたずらでよい。思惑通りにはいかないかも知れないが、うまくすれば私の老後は安泰だ。買い手がつけば、もはや手が動かず働けなくなった末路も、そのカネを手に晴れて施設に引き取ってもらえるということだ。アリもキリギリスも等しくやがて死は訪れる。ならば、それまで楽しく生きてやろうじゃないの。

さてさて、立派な庭にせねばなるまい。この連休は庭の草取りに忙しく、時計修理などしている場合ではない。笑

クスノキ一本なら収まりそうな土地(約360平米)