今日の時計『IWC ポートフィノ』

IWC|ポートフィノ Ref.3513-20
IWC|ポートフィノ Ref.3513-20

愛知県のK.M.様ご依頼品

IWCのポートフィノが止まってしまったとの事で、オーバーホールのご依頼をいただきました。他店での見積もり価格が3万5千〜5万円かかるということでしたが、当工房ならばパーツ交換があったとしても、概算で最高でも3万円程度で修理可能とお伝えして時計を送っていただきました。結局はパーツ交換の必要がなく、オーバーホールと追加パーツのネジ1個を合わせて¥15,500 にて修理が完了しました。裏蓋を開けて実物を見てみないことには正確な見積もりは出せませんから、概算では高めに値段を言わざる得ないのです。しかし当工房ではこれ幸いと概算の金額のまま話を進めたりせず、見積もりは正直に出します。(概算より安くなることがほとんどですが、高価なパーツ交換の必要があれば概算より高くなることもあります)

今回のように、現行品かそれに近く過去10〜20年以内に発売されたブランド腕時計のオーバーホールは、サービス内容が似ていて共通する部分が多いため、本件の内容が参考になると思われます。サービスご利用をご検討中の方は、ぜひ今回の作業ハイライトをご覧ください。


オーバーホール事例;IWC “Portofino”(愛知県K.M.様ご依頼品)IMG_1612

今回のお品は IWC のポートフィノです。Cal.37521(ETA2892A2ベース)を搭載した、毎時28,800振動のハイビート・ムーブメントです。ある日突然止まってしまったという、Q&Aの『オーバーホールのみで直る例』の典型的なパターンと同じ症状とのこと。ご依頼内容はオーバーホール&ライト・ポリッシングです。

 

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さっそく裏蓋を開けていきます。裏蓋ケース4カ所のネジを外しますが、1カ所のネジが無くなっており、これは後ほど追加することに。蓋を開けてビックリ。ムーブメントをケースに固定するネジも1カ所が外れており、なんとテンプに引っかかっておりました。(写真右下)なんの心当たりもなく、ある日突然ピタッと止まってぴくりとも動かない場合に多いのがこれです。

 

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絡まったネジを外すと、何事も無かったように動き出しました。タイムグラファーで測定したところ、全ての姿勢において−5秒〜−15秒程度の遅れが見られます。単なるネジ外れのみが止まりの原因で、他に何も問題がなくムーブメントの状態や精度が良好であれば、お代は取らずにそのままお返しすることもあります。今回は以前にオーバーホールを受けてから7年経過との事でもあり、測定結果からも明らかに精度不良ですから、予定通りにオーバーホール作業を進めることとします。

 

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本体からムーブメントを外すため、まずリュウズを抜きます。ここで不具合が見つかりました。巻き真(リュウズの軸)のスリットの片側がめくれあがって変形しており、そのせいでリュウズを引いてもムーブメントの地板に引っかかってしまい、通常のように引き抜くことができません。地板を痛めないように、少し手順を変えて分解し、慎重に引き抜きます。そして問題の部分を旋盤で削ります。(赤丸部分)左下が削る前で右下が削った後です。

 

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こちらは削った部分を拡大したところ。左の写真で、スリットの左側の角の部分が、膨らんだようにめくれている様子が分かります。量にしたら5/100 mm位だと思われますが、たったそれだけ径が太くなっただけで引き抜けず、力を入れてもビクともしませんでした。それほど精密な作りのパーツであり、設計寸法ということです。右の写真は突っ切りバイトで山を削り、平らになったところです。これで「スルッ」と抜き差し可能な元の状態に直りました。

 

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分解はただバラバラにするだけではありません。油の注油具合や跡などを見ることで、いろいろな情報が得られます。これはアンクルが取り付けられている部分の地板とアンクル受けを裏返して並べたところです。穴石の回りに前回注油された油が残っています。ほぼ同じ量であり多すぎず少なすぎず、差した職人はきちんとした注油技量があることが分かります。しかし、ここへ油を注すのは日本だけです。スイスはじめ世界のほとんどのブランドではここには注油しません。古いやり方であることから、おそらく年配の古参時計師が担当したものと推測されます。

 

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全てのパーツの分解と洗浄が完了したところです。cal.37521 はETA2892A2をベースにIWCが特注してETAに作らせたものですので、100%ETAのパーツと互換性があります。そのため、内部のパーツに問題があって交換の必要がある場合でも、比較的パーツの入手には苦労せずに直すことが可能です。なお、IWCでは独自に厳しい品質基準を設けており、ETAから仕入れたパーツもそのまま使うのではなく、選別を行なって自社の基準に満たないパーツは採用しないそうです。そのため、中身だけETAムーブメントを入れた格安の新興ブランドの製品とは、自ずと完成度が違います。

 

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写真の工具は『ETA-chron(エタクロン)回し』といいます。これを使ってテンプの調整のうち、アオリ幅の調整を行ないます。四角に切った溝にぴったり合う緩急針の頭にはめて、左右に回すことでアオリ幅を広げたり狭めたりすることができます。この機構のおかげで、劇的にテンプの調整は短時間で楽に行なうことができるようになりました。

 

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くるりと回して、アオリ幅を狭めたところ。(写真左から右へ)同じように、奥に見えるヒゲ持ちの頭も回すことで、ヒゲぜんまいの位置も変化させることが可能です。写真の場合はヒゲ持ちを時計回りに回せば、ヒゲは外側へ移動します。(半時計回りで内側へ移動)この2つにより、簡単に最適なアオリ幅と、アオリ幅の中央をヒゲぜんまいが通るように調整できてしまいます。ただし、ヒゲぜんまいの理想的な曲線カーブ(アルキメデススパイラル)はこの作業のみでは得られません。擬似的な状態でも実用上は問題ない特性が得られてしまうため、これに頼った調整ばかりしている技術者は、本来のヒゲぜんまいの調整スキルが育たなくなります。現行品だけしか修理しないところが陥りやすい傾向です。そうなると、アンティーク時計などの従来型の緩急針とヒゲぜんまいを持つテンプの調整を満足にこなせません。値段の割にパッとしない特性の修理をするところは要注意です。

 

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アトリエ・ドゥはエタクロン頼みではなく、ひげぜんまいの正しい調整を行う技術があります。この写真をご覧いただければ論より証拠です。理想的なアルキメデス・スパイラルを描くひげぜんまいは、どの角度から見てもこの写真のように、1.ひげの間の幅が均等 であり、2.しかも水平な状態です。(どちらが欠けていてもダメです)エタクロンでひげ持ちを回せば、たちまち1.の前提は狂います。それをピンセットなどでひげを曲げて調整しますが、曲げ方が垂直でないと今度は2.の前提も崩れてしまう、という訳です。下手な人がひげぜんまいに触れば触る程、両方の要素がぐちゃぐちゃに入り乱れて、この写真のような状態からはほど遠い、怪しげな不均等な渦になってしまいます。

 

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ヒゲぜんまい調整後のベース・ムーブメントを組んだ状態で仮の測定です。正しいテンプの調整がなされていなければ、全姿勢に渡って歩度を数秒以内に揃えることが難しくなります。調速機構や脱進器に少しでも問題があれば、このように定規で引っ張ったようなブレの無いキレイな直線は出て参りません。(写真左上)他の姿勢でも大きな差や乱れがなく、時計がよく調整されていることが一目で分かります。それにしても、これほど真っすぐな直線を見ることはまれです。余談となりますが、以前時計学校にいたときに、SEIKOのOBであり教官だったある先生が、かの有名なスイスの天文台コンクールに出品して、SEIKOが1位に輝いたときの時計を学生に見せてくれたときの事を思い出します。(その時計は全部の姿勢が『直線』という恐るべき特性を誇っておりました、、、)

 

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ベース・ムーブメントの組み立て調整が問題なく済みましたので、カレンダー回りの機構を組み立てて、剣付け(針をセットすること)まで進みます。ETA2892は現代の機械式腕時計ムーブメントの中でも、最も完成度の高い機械のうちのひとつで、IWCのみならず多くのブランドが採用しております。カレンダー機構も必要最小限のパーツで、故障が少なく、かつ組み立てやすく作られており、調整にもほとんど手間がかかりません。この辺りはさすが本場スイス製と言って良いでしょう。(国産のものは必ずしも分解掃除しやすくは設計されておらず、もっと見習って欲しい部分です)

 

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上から秒針/分針/時針です。写真は0時ちょうどの位置に揃えていますが、他に3本の針が重なり合うどの時刻であっても、針と針の間隔が均等であり、針は文字盤に対して水平で真っすぐになるように取り付けします。ある位置では水平に見えても、別の位置では上下に振れていれば、最悪の場合は針同士がぶつかって時計が止まったり、文字盤や針にキズや擦り跡が付いてしまいますから、これは特に慎重に取り付け作業を行い、針回しをしながら確認をします。文字盤の上にも毛ゴミなどがあると目立つうえ、せっかく中身の調整が良くても、毛ゴミ1つを見落としたがために、時計の持ち主にとって修理全体の印象が悪くなりかねませんので、気が抜けません。(それでも毛ゴミは時に絶妙なカムフラージュで隠れていて、完成後にフラフラ飛び出して来たりするのです!)

 

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文字盤とケース風防の内側にゴミ等がないことを十分に確認しながら、ケーシング作業へと進みます。自動巻ブロックも取り付けして、ここまで来ればあともう少しです。ムーブメントをケースに固定し、今度は外れてこないようにネジもしっかりと締めます。どうも現行品のネジは素材の関係か焼き締めの関係か、柔らかくてズルズルと外れることが多くあります。固ければそれでいい訳でもなく、ネジ関係で一番厄介なのは、中で折れ込んで外せないときです。それに比べたら外れてくるだけマシです。裏蓋4カ所のうち足りなかったネジ1本も、新しくステンレス製(Swiss製のINOX)のネジストックからサイズの合ったものを見つけて、補充しました。

 

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ケーシング後の最終特性です。

左上)文字盤上 振り角 293° ビートエラー0.0ms +005 sec/day

右上)文字盤下 振り角 285° ビートエラー0.0ms +005 sec/day

左下1)3時下 振り角 255° ビートエラー0.3ms +005 sec/day

左下2)12時下 振り角 253° ビートエラー0.0ms +005 sec/day

右下3)3時上 振り角 264° ビートエラー0.1ms +001 sec/day

右下4)12時上 振り角 264° ビートエラー0.2ms +001 sec/day

6姿勢すべてで、+1〜+5秒 という、COSC のクロノメーター級を凌駕する特性となりました。当工房のような個人の零細業者は技術が心配だと思われる方も多いと思いますので、サービス内容をアピールするべく、テンプの調整を入念に行なったのが良かったのもあります。もちろんIWCの元々の製品品質が高かったということも関係しております。なぜ他の修理業者ではここまで作業内容を公開しないと思いますか?(結果はうそをつきません)

 

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完成

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