Appleton tracy & Co. (Waltham) 18s

アップルトントレイシー(ウォルサム)懐中時計

アップルトントレイシー社製の懐中時計オーバーホールのご依頼です。19世紀末頃に作られたもので、100年以上も昔のものです。日本はまだ明治が始まったばかりで、精工舎(現セイコー)さえ生まれていなかった時代です。動くだけでも奇跡のようなほとんど骨董品です。一応動作することを確認して受付いたしました。

 

ところが。工房に届いて1回目はゼンマイをフルに巻き上げて動作することを確認したのですが、その後いざ修理の段階になって再び巻き上げたところ、無情にもゼンマイがパキッと折れてしまいました。分解して香箱をあけたところ、ブルースチールのゼンマイが入っておりました。まだステンレスが発明されていなかった頃は、鋼鉄製のゼンマイだったわけですが、古い懐中時計ではしばしば見かけます。

 

手持ちの懐中時計用のゼンマイはニヴァロックスというステンレス合金の一種です。厚みや長さなどの近いものから合いそうなものを探します。どうやら近いものがひとつありました。しかし、肝心な部分が決定的に異なることに気づきます。

 

取り出した古いゼンマイの端にご注目ください。よく見ますと端はまっすぐではなく、T字型をしていて出っ張りがあります。これはウォルサムの一部モデルに見られる特徴で、これが無いと香箱に収めることができません。それにしても取り出したゼンマイは渦が乱れています。これでは切れていなかったとしても交換すべき状態です。(私が昔お世話になった御徒町の修理会社では鉄のゼンマイを見ると無条件でニヴァロックスに交換していました)

 

ニヴァロックスのゼンマイの手持ち品は全てスイス仕様で、残念ながらアメリカ仕様のものはサビが出ているような鉄製のものばかり。やむなくウォルサム専用品を取り寄せることにしました。(ご依頼主は理解のある方で交換費用実費をご負担いただくことに同意されたため、いったん作業を中断しました)

 

2週間ほどして専用ゼンマイが届きました。端がT字型のため、すこし盛り上がっています。

 

この形状のゼンマイを入れるのはちょっとコツが必要です。うまく香箱の穴にT字の端が埋め込まれるように入れないと、蓋をしめることができなくなり、また取り出してやり直しになりますが、それにはT字型用のワインダーが必要になり、、、(そんなものは持っておらず)ちょっと緊張しましたが、一発で決まりました。

 

ホッと胸をなでおろし、さっさと注油してしまいます。さすがに専用品だけあってご覧の通りピッタリです。

 

蓋をしめたところ。

 

T字の端がちょうど収まるように、このように蓋側にも溝が切ってあります。蓋の装飾模様がウォルサムらしいですね。アメリカもまだこの頃はヨーロッパの水準に追いつけ追い越せといった様子が見て取れます。その後やや遅れて日本でも精工舎がスイス製の時計などをお手本に国産時計を作り始めたのは周知の事実です。

 

全てのパーツの分解と洗浄が終わったところ。

 

パーツ点数は思ったほど多くありません。三針式の懐中時計の典型的なモデルです。脱進器(アンクル)のみがスイスレバー方式そのままではなく、棒型の変則的な形状です。スイス製のスタンダードなモデルをお手本に、色々と改良した部分や独自の構造も見受けられます。

 

ウォルサム独自の技術は2番車にも見られます。“セーフティーピニオン(Safety Pinion)”がそれです。写真上のように、2番車のカナが収まる部分にネジ溝が切られており、カナはネジ式で取り付けられています。これはゼンマイからのトルクが正常にかかっている時はカナが締め付けられる方向に動きます。今回のようにゼンマイが切れてしまった時は、香箱が弾みで逆回転することがあり、一気に解放されたトルクエネルギーにより2番車や3番車のホゾが折れてしまうことがあります。そこで、カナをこのようにネジ式にしておけば、異常なエネルギーで逆回転したときは自動的にカナが緩む方向に飛び出して、香箱の歯からカナへと伝わるエネルギーを遮断してくれる仕組みです。よく考えたものだなあと思います。

 

バランスを組んでヒゲゼンマイの調整をするところ。いわゆる“鉄ヒゲ”でゼンマイと同様ブルースチールです。テンワはもちろんバイメタル切りテンプ。内側が鋼鉄で外側が真鍮の板を貼り合わせたものです。気温の変化により金属の膨張係数が異なることを利用して、テンプの外径を膨らませたり縮ませたりします。外径の変化により慣性モーメントを変えることで、鉄ヒゲそのものの温度によるバネ定数の変化分を相殺させる仕組みです。ちょっとあまりに専門的なことを簡潔に書きすぎて、おそらく読まれる方の99%は頭が『???』状態と思われます。(汗)

まあ、そういうものだと思ってください!笑

深遠な世界の扉をくぐりたい貴方は、『機械式時計講座/小牧昭一郎著(東京大学出版会)』あたりでも読まれることをオススメします。

 

巻き上げ/針回し機構を組んでいきます。

 

こちらは輪列を組んでいるようす。

 

歯車の状態は100年越えとは思えないほど良く、ご覧の通りまだまだ使えそうな様子です。

 

レバーを引き出すと竜頭の回転エネルギーが針回しモードになります。(レバーを戻すと丸穴車が角穴車に接続され、巻き上げモードに切り替わるしくみ)

 

反対側はこんな感じ。受けを取り付けてテンプまで取り付けしたところ。受けには“Appleton Tracy & Co. WALTHAM MASS” と彫り込まれています。テンプ受けにも模様が彫り込まれており、ヴィクトリア朝風の様式の影響が見て取れ時代を感じさせます。

 

測定ですが、一言でいうと『測定不能』です。

写真は一瞬を切り取っているのでもっともらしい数字がでておりますが、今回は数値が次々と切り替わって安定せず、サンプルとして提示できる情報を得られませんでした。(+4が出たとおもったら次の瞬間+20になったり、ー10になったり、要するに『読めません』)

実測でどうにか日差60秒(1分)以内には収まっていることを確認。100年以上前の時計になると、こういうことも珍しくありません。

これを解決するには、先ほどの小難しい理論を全て理解した上で、さらに必要に応じてパーツを探して交換しなければなりません。お金も時間も今日のオーバーホールの何倍もかかります。それでも是非やってほしいという方は是非ご予算10万円からの『すべておまかせコース』へのご応募をお待ちしております。

オーバーホールで出来ることは、どうにか動作させ続けることの維持・整備がやっとです。なにしろ西郷さんが生きて使っていたような時代の代物です。ご容赦くださいませ。

(懐中時計に関しましては、不動品は『すべておまかせコース』以外での修理の受付をお断りいたしております。オーバーホール可能な時計は原則動作することです。)

 

ケースに収めます。このモデルはリュウズを取り付けてしまうと裏を見られない構造のため、これが見納めです。

 

レバーを引き出して、剣つけと針回しを確認。針は真横からみると、ずいぶんぐにゃぐにゃです。ご依頼主もまっすぐに直して欲しい旨のリクエストがあったものの、過去に散々痛い目をみている私は『ムリです』と即答申し上げました。

針も例によって鋼鉄ブルースチール製ですので、下手に曲げる力を加えると、、、ゼンマイ同様『パキーン!』といってしまいます。そして、呆然とその場に立ち尽くす羽目になります。悪いことは申しません。『さわらぬ神に祟りなし』

 

完成

今回のサービス料金:オーバーホール(手巻き) ¥15,000

外装研磨サービス:洗浄のみ

ブログ掲載オプション:¥5,000

交換パーツ費用:ゼンマイ ¥5,000

合計:¥ 25,000

 

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