オメガ・シーマスター

Omega Seamaster cal.630

オメガ・シーマスターのレディース手巻き時計の修理ご依頼です。お形見のお品とのこと。動かない状態でしたが、オーバーホールコースにて受付をいたしました。


オメガ・シーマスター

ご依頼主は女性の方で、送られてきた時計にはツバキの絵柄の付箋が添えられており、とても丁寧で美しい文字でメッセージがしたためられておりました。

何が素敵かと言って、ツバキなんです。「木」へんに「春」でツバキ「椿」ですよ。わずかに季節を先取りしているところがいいじゃないですか。こういう、さり気ない所に人間の品性は現れると常々感じております。

時計は動かないんですけれども。それは中身を見て見なければわからないですし。(調子がよい)


そそくさと時計を分解していきます。裏蓋を開けて、、、というよりも裏蓋とケースが一体型なので、風防側からムーブメントを取り出すタイプです。リュウズはこのように頭だけが着脱できる式。

ムーブメントにはとくに目立った損傷などは見当たらないようですが、、。


バランスにご注目ください。なんと、これは、、。

バランスの輪が完全にナナメになっております。ホゾが穴石から完全に脱落してしまっております。以前にこの時計のムーブメントに触れた人物が組み間違えたにしてはあまりに間抜けですし、持ち主が黙っていないはず。かと言って、時計を落としたり何かにぶつけるなど強い衝撃が加わってホゾが脱落したとして、これほど見事に外れてしまうものなのか。ネジが外れて歯車に絡まっているパターンは多いですが、これは珍しいです。

いずれにせよ、これでは動くわけがありません。


バランスを取り外して、正しく組み直しました。

すると、何事もなかったように動き始めました。

こういうこともあるんですね。動かない理由は時計それぞれです。


動き出したため、分解前に歩度を測定してみます。

ビートエラーで波形は二重になってはいるものの、姿勢差はまずまずの範囲に入っています。波形は多少波打っていますが、これは完全に油が切れた状態の時計ではよく見られます。動きはすれど、不安定な状態です。どうやらオーバーホールコースで受付できそうです。

→ 止まって動かない時計であってもこのように【オーバーホールコース】で受付できる場合もあります。


バランス本体を受けから外して、回転させながら振れの有無などをチェックしていきます。従前の状態がバランスのホゾが耐震装置に正しく組まれておらず、ホゾが穴石から脱落していた状態だったため、少しの衝撃でも時計に加われば、それが原因でホゾが曲がったり変形して痛んでしまう恐れがありました。

幸い、目視で明らかにわかるほどの振れやブレは確認できませんでした。

しかし、ほんのわずかな曲がりでもバランスは動作に影響を与えます。目視でわかるくらい変形していたら、1日に何十秒〜何百秒と狂います。ほんの僅かの、人間の目ではわからないほどの変形でも、数秒以上狂ってしまうものなのです。非常に繊細であり、精密さは時計の中でも最も重要な部分です。


バランスの裏側のようす。年代物ですね。リバランスのための穴があります。

時計師がひとつづつ手作業でバランスを調整していた時代のものは、出来不出来にも幅があります。今でこそコンピューターとロボットによる正確無比のバランスが大量生産できる時代ですが、ほんの50年前まではそんなものはありませんでした。

現在の機械式時計の性能に慣れてしまった世代から見ると、どうして古い時計には精度に限界があったり、今のモノみたいには動作しないのかが理解できないようです。見た目には構造も同じだし似たような感じに映るかも知れませんが、その工作精度には圧倒的な違いがあるのです。


じゃぶんじゃぶん♪

パーツはベンジンでひとつづつ丁寧に刷毛で洗います。

実は、組み立てる時間より洗っている時間のほうが長いんじゃないか?と思います。家を建てるときの“棟上げ”にも似て、組むのはほとんど一瞬です。組む材料の良し悪しだけが、組み上げたときの品質に直結します。組み上げる前までの下処理にこそ、ヒミツは隠されているものです。


すべてのパーツの洗浄ができました。

裏押さえと呼ばれるパーツだけが、よく見ると足がとれて破損しております。モノによりけりなのですが、裏押さえは足がなくても使えてしまう場合があります。足はオシドリのピンを規制して、これはリュウズを引いて時刻合わせするときの支えになっております。


新しい裏押えを取り付けたところ。すぐ右下に足の折れた裏押え。この部分はよく折れやすいです。


再びバランスを受けに組んで、ひげぜんまいの具合を調整します。

時計の最高性能を求める視点でいいますと、バランス一式を最新のものに交換することが可能です。ヒゲもこの時代のものは鋼鉄製の旧式です。現在はニヴァロックスが主流になっており、このcal.630系用のバランス一式もオメガでは追加生産をしていて、ちゃんと用意があります。

バランスを交換する場合は、当工房での上代は時価となります。(ムーブメントの違いや入手時期などにより金額は全然違います)しかし、交換せず現状でも日差20秒以内には入りそうです。交換した場合でも10秒以内に入る程度で、その差をどう感じるかは人それぞれです。

少しでも理想的な性能を追い求める場合は、【すべておまかせコース】扱いとなり、上記パーツ代を別途追加する対応となります。


ムーブメントを再び組み直して、ベースムーブメントは完成です。

元気よくバランスが振っています。

お形見のお品の場合は、故人が使っていたままの動作の鼓動と申しますか、それをそのまま引き継ぎたいという心が働くこともあるかも知れません。

いろいろな感じ方・考え方があり、それは人それぞれの多様化した嗜好があるかと思いますので、なるべくご依頼主のご意向を汲むよう努めるようにしております。


最終特性

左上)文字盤上 振り角 297° 歩度 +009 sec/day

右上)文字盤下 振り角 282° 歩度 +016 sec/day

左下1) 3時下 振り角 252° 歩度 +009 sec/day

左下2)12時下 振り角 262° 歩度 -006 sec/day

右下3) 3時上 振り角 252° 歩度 -013 sec/day

右下4)12時上 振り角 259° 歩度 -002 sec/day

ベストは尽くしましたが、やはり姿勢差は取りきれません。最大姿勢差は-13から+16にわたって、実に29秒。特性上はギリギリ30秒以内で、これで実測するとだいたい日差20秒以内となります。

洗浄と注油をしたことで、波形は直線性が戻ってまっすぐに直りました。振り角は十分に高く安定動作しており、あまり正確さを求めなければ、普段用にもまだお使いになれる性能だと思います。故人を偲んでいただけるお役に立てれば幸いです。


文字盤と剣つけに進みます。ケースの構造がやや特殊であり、組み込んでしまってからでは緩急針を操作できないタイプであるため、先にムーブメントの歩度を合わせこんでからの文字盤と針の取り付けとなります。

日本の高度経済成長期には、猫も杓子もブランドもので誰でも持っていておかしくないほど高級時計でもなんでも溢れておりました。巷の時計修理屋でも多分、仕事の依頼はいくらでもあって、十把一絡げに粗略に扱われたこともあるのかも知れません。文字盤には現在の時計師の感覚では信じられないような打ち傷だの線傷などが当たり前のように、ところどころついてしまったモノも珍しくありません。これはその時代の雰囲気をそのまま反映しています。いわゆる『年式相応』というヤツです。

今回のご依頼の時計も、そんな時代を感じさせるお品でありました。

再び命が吹き込まれるように、持ち主と共に歩む時計が、まだここにあります。

これこそ、私に残された仕事なのかも知れないと感じております。


完成。

実施コース:【 オーバーホールコース 】


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