クスノキと私

これは時計師の日常よもやま話です。興味のない方は飛ばしてください。


新芽をつけるクスノキ 2020年春ごろ

この2年で起こってきていること。最近になり、これは戦争なのではないか?という思いを強くしている。言うまでもなく、新型コロナウイルスの登場とそれを取り巻く世界の情勢のことである。2020年の初めに唐突に中国武漢から飛び出したとされるそれは、瞬く間に世界中へと広がりパンデミックを起こした。都市はロックダウンにより閉鎖され、人と物の流れは大混乱をきたし、経済活動も大きく冷え込んで身動きがとれなくなった。学校は休校になり、仕事はリモートワークに頼らざる得なくなって、巣篭もり生活を余儀なくされた。


葉を展開していく 2020年初夏の頃

ほどなくしてワクチンが作られ、ひっぱりだこで我先にと集団免疫確保の名目で打ち始めた。そして2021年も半ばが過ぎた頃、ようやく私のもとにもワクチン接種券なるものが届き、国をあげての一大事業としてワクチン接種が行われ、まもなくそれも終わろうとしている。だが、何かおかしくはないか。ワクチンは当初「感染を予防し集団免疫をつけることでウイルスの自然消滅をめざす」ことを目的としていた。マスコミでもだいたいそんな論調で報道されたと思う。ところが、いつの間にか「重症化を防いで死者を減らす」ことに題目が移ってきており、さらに今では「ワクチンを打っても打たなくても死者数は同じ」とまで当のワクチン製造元(ファイザー)により暴露されてしまった。世界を冷静に見渡して見て欲しい。ワクチンを熱心に、多数の国民に打ちまくった国ほど、なぜかコロナの害にまみれている。このことに私が気がついたのは、ワクチン先進国と言われるイスラエルでの対応と、その後彼の国で起こってきた爆発的感染と重症者・死者数の急激な増加というニュースを知ってからだ。これは何かあるなと。


その後のわが家 サツキの苗木が綺麗に咲いた

そこで、医者や専門家の出している本を数冊いそいで取り寄せて読んでみた。なんとしたことか。彼らには初めからワクチンは毒物だという認識があり、接種に際してこの上なく慎重を期すよう警告を発していたのである。いわく、ワクチンの材料がそもそも害である。酸化グラフェンやPEG(ポリエチレングリコール)など、そもそもアレルギー反応の元となるような物質で構成されている。これだけでも問題であるが、それによるアナフィラキシーショックなど副作用を起こしたことは実態がほとんど報道もされず、国はワクチンとの関連性を認めようとしない。これは未曾有の薬害のはじまりだと直感した。さらにこれはまだほんの始まりであって、害の一部にすぎない。このワクチンは調べれば調べるほど、悪意のかたまりとしか言いようがないことが分かってきた。mRNA という過去に実用化された実績のない、いわば遺伝子組み替えワクチンである。過去の動物実験ではこのタイプのワクチンはことごとく失敗した。原因として、ADE(抗体依存性増強)が強く疑われる。これはごく簡単に言うと、本来ウイルスの感染を抑える働きをするはずの抗体が、逆にウイルスを増やしてしまう働きをする現象である。そのメカニズムは複雑であり、現在の科学でもまだ解明されていないことだらけのようだ。大阪大学などが優れた研究を行なっており、直近のプレスリリースを読んでみた。ここでも私はある確信を得た。

このワクチンを打ってはいけない。詳細についてはぜひ本を読んでもらいたい。(『コロナワクチンが危険な理由』荒川央著/『新型コロナワクチン の正体』内海聡 著/『大丈夫か、新型ワクチン』岡田正彦 著など多数)これらの図書は難解な用語や表現は避けて分かりやすく書いてある。およそ常識的で一般書を読める人なら、誰でもこの結論に至るはずである。


ぐんぐん成長するクスノキ 2020年夏ごろ

mRNAワクチンが、さまざまな害を人体におよぼすことは明白である。ADEを引き起こすこともそうだが、さらに大量のスパイクたんぱく質を生み出すことで、別の障害や疾患・生殖不全などを作り出す恐れが濃厚である。さらには、このワクチンの作用機序は、人体の自然免疫構造をグチャグチャに破壊してしまう可能性が高く、早くて2年〜遅くても10年以内に免疫不全を引き起こし、重篤な疾患となる可能性も指摘されている。いわば免疫不全症候群と似たことが体内で起こり、これはエイズの末期症状と同じである。こんなものを打ち続けていたら本当に人類は滅亡してしまうだろう。もともと人間の体に備わっている、自然免疫で対処していればどうということのないコロナウイルスを、このワクチンを打つことで殺人ウイルスに変身させることができる。バイナリー兵器というらしい。私は専門家の書いた本と、ネットでみつけた詳しい情報とを合わせて簡単に見破ることができた。おかしいと気づいて1ヶ月も要していない。おかげであやうく接種を回避できた。まさに接種予約をしようとしていた矢先であった。


またひと回り成長した 2020年晩夏

その過程で、今起きていることの実態にも気がついてしまった。たくさんの矛盾にも気がついた。結論から先にいってしまえば、これは人類が次の時代なりステージへと移っていく中で起きてきた、必然的な淘汰である。人はあまりに多くのものを自然から奪いすぎた。今や地球の環境は、人間の活動によってボロボロになり、動植物は居場所を追いやられ、自然は怒っている。その声があなたには聞こえるだろうか。人間は増えすぎた。今の資本主義による経済活動と人間社会のあり様は、これ以上維持・拡大できない限界を迎えつつある。人類の繁栄と地球環境の持続性を天秤にかけたとき、明らかに現代の文明は環境に負荷をかけすぎており、このままではやがて水や食料までもが足りなくなってしまう。そのことが、必然的に人類の大幅な削減を要するということに帰結する。それでも人は誰でも生きようとするし、子孫を増やそうとする矛盾がある。口ではやれ地球環境が大切だ、環境破壊を止めよう、などと言っているくせに、いざ自分が先頭に立って資源を節約した生活をするかといえば、そうでもない。

こうした矛盾や抜き差しならない事情が背景としてある。加えて、テクノロジーの進歩により、今やこれまでの20世紀的な大量生産と大量消費により回ってきた大衆というものが、不必要なばかりでなく邪魔になったのだ。売れても売れなくてもモノでもサービスでも出しまくって、気分次第でお金を回して成り立つような経済は、破滅と隣り合わせの自由であり、見せかけだけの物質的な豊かさである。もうそんなライフスタイルは時代遅れであり、そんな生き方しかできない低俗な市民や大衆は、みんな消えたほうがこれからの地球全体のためなのだ。その淘汰がこういう形で起こってきたのではないか?

もしこのように言われたら、あなたはどう感じるだろう。私は市民でいられなくなってしまうのだろうか。


赤く染まって少しづつ大人の木に 2021年春ごろ

実に恐ろしいことである。だから戦争なのである。戦争とは必ずしも従来のような国家と国家によるものであるとは限らない。人と人との争いである本質は変わらない。では、誰と誰の?

、、、これが非常に難問である。強いて言えば、究極には自然を愛するものと、そうでない者たちと、の戦いであると私は捉えている。環境の破壊を省みず、自分には関係ないとばかりに資源を浪費し、生きているだけでその存在自体が地球の生態系をますますダメにしていくもの。自然環境の保護や、限りある資源を大切にしようという声が上がってくるなかで、自己の利益を最優先し、譲り合うことを知らないその傲慢さ。わたしは注意深く周りを見渡した。そういう人々にはある共通点があるのだ。彼ら大衆とは、利己的であり、他人を思いやる心などなく、信仰心もない。信じるものはマスメディアの垂れ流す嘘や見た目だけで中身のない空虚な娯楽の類であり、精神性が失われてしまっている。そして、テレビに登場する嘘まみれの操り人形たちの情報を鵜呑みにして、疑うということがない。自分の頭で考えることをやめてしまった、思考停止に陥った人々。みんながやるから私もやる。誰かが必死になって間違いを訴えても、腐ったものたちの目には、ただの陰謀論にしか見えまい。現に、そういうことになっており、反ワクなどレッテル貼りをして、メディアはまるで狂人のように扱い、大本営の発表が全てのようなお決まりのセリフで大衆を手なづけている。デマに惑わされるな、必ずこの手の人たちはいると。

だが、大衆は常に間違う。だから大衆が株で儲けることもなければ、ビジネスで成功することもない。才覚があるのはほんのひとにぎりの人たちであって、真実を知るものもまた少ない。群集心理とか呼ばれるものは、大衆にかかったバイアスであり、一種の洗脳とさえ言える。朱に交わればなんとやらである。その一方で闇のなかでは、人知れずとんでもない計画が進められているものである。実際、今回の一連のコロナ騒動も、誰かが裏で糸を引いているかも知れないが、わたしはそういうことにはあまり興味がない。ミクロ的な実態はどうあれ、マクロ的にはこれは人類によって不可避の試練だと理解するからだ。仮に誰かの陰謀であって、それを阻止できたとしても、第2第3の本質的に同じ動きが別のところから遅かれ早かれ次々と出てくるだろう。これは構造的な問題であり、人類の辿る宿命である。次の時代には残念ながら全ての人を連れていけないのである。そういう切羽詰まった中で、AIによる革命前夜の中でまさに起きた戦争であり、淘汰なのである。


やがてわが家を追い抜く日がくるだろう

今後この世界で生き残っていけるのは、かのダーウィンの説くごとく、『変化する環境に対して柔軟に適応できるもの』となるであろう。すなわち、単純労働は人工知能によって奪われ、他人と同じようなことしかできなければ、もはや無用の存在となり居場所を失うということである。生き残りたければ、淘汰の陰謀から逃れる知性を身につけた上で大衆から脱皮し、次なるAI化の波に飲まれないよう自分をそれに合わせていく能力が必要なご時世という訳だ。機械式時計の修理を請け負って生活の糧としている私にとっては、興味深いところである。機械式時計やその修理職人も淘汰されてしまうのだろうか?

だが、私はあまり心配していない。現状ですでに機械式時計とは正確な時刻を知るための日常の道具ではなくなっているからだ。生活の役に立つということと、需要があるということは同義ではない。人の趣味などそうそう変わるものではないし、むしろ新しい時代においてますます注目の対象になる可能性すらあると考える。修理にしろ、そんな簡単に万能なロボットがでてきて、全て解決できるとは思えない。「将来なくなる仕事リスト」みたいなものは、現場を知らない頭でっかちのナントカ二ストみたいな連中が、机上の空論で言っているにすぎない。まずはアルバイトでできるような単純労働の仕事が本当に淘汰されたことを見てから身構えても十分間に合うだろう。

機械式時計は、文明社会において象徴的である。歴史をみればそれは明らかであり、節目節目で重要な役割を果たしてきた。飛躍的に航海技術を発達させたのも時計なら、近代社会の時間による賃金の概念を生み出したのも時計である。鉄道を時間通り正しく運行させたのも時計なら、市民社会のありとあらゆる行動を時間というひとつのルールにリンクさせ、完全に同期させたのも全て時計なのである。そして時間こそが、古代より人間にとって永遠に謎の哲学的な概念そのものである。天体の運行を知ることは、どの文明においても最高に重要なことであった。規則正しく繰り返される宇宙の営みを把握するために暦という概念がどうしても必要であったし、年月や時といった時間の概念も無縁ではあり得なかった。やがて人類は1秒を発明して、その正確さを競って諸学に応用することで近現代史は急速に発展していった。こういったものを実によく表象していて、今なお身近なアイテムこそが機械式時計であり、その刻まれる音と針の動きの中にロマンさえ感じることができるのではないだろうか。


2021年 盛夏ごろ

うまく言えないが、機械式時計が好きな人たちは好奇心が旺盛であり、細やかな配慮や気配りのできる人であり、自然を愛している人たちである。そんな気がするのである。詩人であり、音楽が好きであり、芸術が好きなのである。唯物論的というよりは、観念論を重んじる人々か、またはその予備軍である。いずれは現在のような形での機械式時計の愛好家というのは消えていく日が来るのかもしれない。しかし、いくらAIが優秀でありロボットが人間に取って代わるとはいっても、明日すぐにそうなるわけでもない。移行期として半世紀くらい簡単にすぎていく。それ以前にこのコロナ禍による世界的な大混乱の収束と、再び人類が秩序ある平和な日常を取り戻すまでに、私の寿命など尽きてしまうかも知れない。

ソニーの創業者・井深大は「21世紀は心の世紀になるだろう」と20世紀末までに喝破した。テクノロジーが進化していくことで、むしろ反動としての人間性が問い直されることになるであろうと。そして21世紀を迎えた今日、まさに精神の豊かさを追求する時がきている。パラダイムシフトに到達せず、垢じみた前時代的であり、物質的な浪費にどっぷりと浸かって抜け出せないような、知の後退を引き起こしている者共に鉄槌を。『月と太陽に背いて』という、詩人ランボーを題材にした映画があったが、自然に背き敵対している関係の現代社会は、まさに同じ狂気で満ちている。我々は違う道へ歩みを変える時ではないか。このごろ言われ始めた、ウィズ(with)・コロナとは、自然と共生する社会概念のように聞こえなくもないが、実態はワクチンを打たせ続けるための方便であり、間違っている。自然を人間が都合よくコントロールしようとする神をも恐れぬ傲慢さは、唯物論の延長にあるものである。ランボーの表現を拝借するならば、それはまさに『地獄の季節』のはじまりであるだろう。神を認めず、信仰心(観念論)を捨てた唯物論を担ぐ者たちに裁きの時を。最期の審判は、大いなる自然であるコロナウイルスによって齎されるのである。ワクチンとはその烙印である!


諸行無常にしていっさいの存在は無である

少し見方を変えると、地球という限られた惑星の中で繰り広げられる、資源の分捕り合戦という昔からの変わらない理由で起きた争いかも知れない。つまりは、唯物論がもとであった科学技術の隆盛と、地球人口の限界に達した中において、持つものと持たざるもの同士の内戦という構図である。支配層と被支配層との戦いとも言える。しかし、これらの場合においても観念論的な人間そのものの存在意義を問う姿勢の欠落が、ずっと根底に置き去りにされたままの危うさを孕んでいるように思われるのである。その中で起きた戦争であり、まさに観念論的な心の豊かさの喪失であったり人間性の凋落した冷たく個の孤立した社会の弱点を、正確に突かれた結果ではないか。同時にこれは次の時代への過渡期を象徴するが、必ずしも人工知能が未来を解決すると約束されているとは限らないことに、我々人類は留意する必要があるだろう。科学技術と人間の良心とは、本来対立するものではないはずで、その両方を車の両輪のように活かすことは十分可能だと思われる。その点、学問として先鋭化し、論として対立した19世紀から20世紀までの流れは誠に不幸であった。唯物論と観念論は、いずれもその究極が未解決のまま止揚し、とりあえずは両方のバランスをうまく取ることがどうやら現時点での人類にとっての幸せを導きだす落とし所となるのではないか。(現状は唯物論に傾きすぎている)未来は自分達で変えられるし、その英知を育む努力を必要としている。性急に結論のみを急ぐ必要はなく、常に問い続ける態度が求められていると言えよう。


音声菩薩とインドボダイジュの窓辺から

10月は私の生まれた月にして、最高の季節だと感じる。実りのある収穫の時であり、大自然の恵みを喜びあえる満ち足りた時期だ。だが、やがて厳しい冬が訪れる。

残念なことに、まもなく日本においてもイスラエルをはじめイングランドやアメリカで起こっているような惨事がおきてくるだろう。そして、流行と収束を繰り返すたびにワクチンを打つが、被害の甚大さも比例して増すばかりに誰もがおかしいと気がつくのではないか。だが、その頃にはすでに遅い。審判による烙印はすでに押されてしまった。悲しいことにお別れの日が近い。

私は家にテレビを置かない。もう20年以上そういう生活をしている。フェイスブックもツイッターもSNSはぜんぶやらない。これらは情報源として意味がなく時間の無駄だと理解しているからだ。世の中の出来事はヘッドラインで事実だけを知れば十分である。金の絡んだ余計な解説や偏向された報道はいらない。それで何も生活には困らない。もともと私という人間は、どこか浮き世離れしたスキゾイドを自認する身であり、世俗のことには関心が薄い。それよりは古今東西の思想哲学に触れたり、じっと一人で静かに物思いに耽っているほうが性分に合っている。その私が、ここまでコロナをめぐる情勢に反応し、思索を深めているのは何故なのか。

思うに、宗教哲学などの先哲の教えと内省を通して得られる知見、そして自然への畏れと愛であろう。神はキリストでもイスラムでもヒンディーでも大和武尊でもその他なんであっても構わない。(あやしい新興宗教はもちろんダメだが)要は信仰心があるかどうか。だと思う。何が教えとして正しいか、の話ではない。それを求めようと欲する人間性のことを言っているのである。正しく宗教を求めるものは、決して異教を攻撃しない。むしろ、違いを尊重し共存の道を探る。深い真理に到達したものほど、どの宗教家にもみられるある共通点がある。しかし、今回はこの点について多くを語る時間がない。これはまたいずれかの機会にお話しようと思っている。心の拠り所をどこに求めるかは、今後は嫌が応にも増してくるであろう。この混乱しきった狂った世界において。

いずれにせよ、こういった資質・素養のないものは、知古であれご近所の他人であれ、あっさりと今回の罠に自らはまっているようにしか、私には見えない。同じ人間として助けてあげたくても、差し伸べた手を振り払っているのは彼らのほうである。少しだけ立ち止まって耳をかたむけてくれたなら、誰でもわかるような話なのだが。精神性の鍛錬や内面の充足をおろそかにして、表面的で物質的にすぎない見かけだけの豊かさの獲得に走ってきたツケを払う時がきたのではないだろうか。そういう愚か者は、私のような真実を語るものを悪魔のように非難したり、身に降りかかる不幸を他人の所為にするよりもまず先に、己の無明を恥じるべきなのである。

試練はまだはじまったばかりである。さて、われわれはどこに向かっているのだろうか。


 自然がついには結局その根底を露呈するのではあるまいか?

 【 ゲーテ 】

 〜国務大臣フォン・フォークト氏に捧げて 1816年9月27日の祝賀に際し