オメガ・シーマスター コーアクシャル

Omega|Co-Axial cal.8500

隣町に私の叔父がいるんですが、甥の私が時計修理の職人になったと知ったからかどうだか、1本だけ機械式時計を奮発して買ったんだそうです。それがこれ。「おじさん。機械式はオーバーホールしないとダメになっちゃうよ?」と日頃からけしかけていたのですが、購入から10年経ちまして、ようやく重い腰をあげたようです。


オメガ・シーマスター コーアクシャル

ある日、ふらりと当工房を訪れてきまして。(注;アトリエ・ドゥでは直接のご訪問は承っておりません)

「これ、、、ちょっと見てくんねかな?」

と、手で持ってきた時計をポンと手渡しまして。

「そこの運動公園さ散歩しに来たんでよ。ついでにと思ってさ。」

と、それだけ述べますと、

「急ぎでねーからさ。じゃあ。」

と、言ってそそくさと帰っていきました。。

うーん。

、、、とりあえず計測してみましたが。ウチの測定機はコーアクシャルに正式対応していない頃のものなので、振り角が正常に測れません。歩度はなんとか出ました。ご覧の通り遅れになっております。購入から10年ということで、コーアクシャルの売り文句のひとつの『オーバーホール期間が通常の2倍もつ』はどうやら本当だった様子。時計が遅れるようになって、にわかに私の存在を思い出した模様。(笑)


叔父・叔母夫婦には子供がいない。年金生活になって暇でも持て余しているのか、叔母などはしょっちゅうやってきて、私の血圧を上げてくれる。

茨城って、ホント田舎なんですよ。そこに住んで一歩も外の世界を知らないような叔母は、ど真ん中の田舎者。

「これ知ってっか〜?ロメインレタスっていう新しい品種で、、、」

おばさん。それ、東京では20年以上前から出回っています。

「スターフルーツっていうめずらしい果物みっけたから、持ってきてやったべ」

とか。いちいち言動が恩着せがましく、しかも自分が最先端を走っていると思い込んで疑うということがない。もうおわかりですね。すげー対応が疲れるんです。(苦笑)

まあ、お茶目な叔父叔母ですゎ。(ということにこの際めんどうなので)

で。バランスを分解して、さらに頭に血がのぼります。このバランスは、、、。


『Si 14』とは、新型シリコン採用のバランスということを意味しております。

ジツは、この機械には苦い思い出が。

ひげぜんまいも新型特殊合金とは知らず、従来と同じ鉄系合金(ニヴァロックス)と思い込んでひげぜんまいのわずかな曲がりを修正しようとピンセットをにぎる手に力をいれた瞬間、、、。

『パッキーん』

と、非情な音をたてて、ひげぜんまいが真っ二つに。。

晴天の霹靂とはまさにこのこと。目が点になりました。ご依頼主さまには正直に経緯をお話しまして、オメガの直営サービスセンターで再修理の見積もりをとっていただいたところ、なんとバランス交換で20万、、、。

あの時はさすがの私も背筋が凍りつきました。どうにも規定とはいえ、半額の10万円が当工房で補償できる限度でしたので、なんとかそれで平謝りでお許しをいただいたのです。

工房始まって以来の不祥事で、補償事案となったのは後にも先にもこの1件のみなのですが、やってしまったなあと今でも反省しきりです。


日ごろからの勉強が足りなかった、とか。起きてしまってから神妙になって反省したところで、後の祭りではあります。

コーアクシャルに関しては、発表されて間もない頃、私自身も機械に興味があって、元々の開発者であるジョージ・ダニエルズ氏の英語の解説書まで頑張って読み解きながら、まだ実物を目にしていない新型脱進器の図を、それこそ目を皿のようにして食い入るように見ては、必死に頭の中で動きをシュミレーションしたりして動きを理解するよう努力したものです。

それがいつの間にか時計師になって、幾多の機械式時計と渡り合う日々を過ごすなかで記憶もおぼろになり。何度かコーアクシャル搭載のオメガも手入れする機会はあったものの、まだそれらは出始めでひげぜんまいも従来のニヴァロックスのものでした。それらにも慣れて「こんなものか〜」と思ってしまっていました。

最初の頃は確か、cal.2500だったと思います。上海修行中にもずいぶん出会いました。憧れのコーアクシャル、、、のはずが。当時はまだ世に出たばかりで、コーアクシャルは不具合ばかり。まだ真価を完全には発揮していなかった。ETA2892を改造して、無理矢理組み込んだような構造でしたので、まだまだ発展途上にある機構でした。「これならETA2892のままのほうがよほどマシだよ」とさえ思ったほど。


そうそう。これこれ。コーアクシャル脱進器のいちばんの特徴は、このアンクルとガンギ車の構造にあります。スイスレバー方式のものとはまるきり違います。動作の仕組みもまったく違います。一般向けの解説では、接触を減らすことで負荷がさがり、その結果オーバーホールする期間がより長持ちするとか、そういう説明が多い。まあ、それも間違いではありませんが、特徴のひとつにすぎません。

コーアクシャル(同軸)の本質は、脱進器での力の伝わり方の違いにあります。従来のスイスレバー方式では、アンクルを介して受け渡しする力の大きさや一連の動作が完了するまでに要する時間が入爪と出爪で微妙に異なる(軸からの距離が違う)であることに対し、コーアクシャル方式では、ガンギ車の歯がアンクルのツメに接したときの距離および力の伝達に要する時間が入爪と出爪の双方で同じであり、同軸の系に属すことによります。軸がずれないので原理的に誤差が生じないというアドバンテージ・メリットがあります。

ちょっとこれだけの端折った説明では何のことやら理解できないと思います。実際に理解しやすいように動きまで含めて説明しようとすると図を多用した複雑で奥が深い話になってしまうため、興味のある方は専門書などをお読みいただくとして。

(ネットでちょっと調べてみたんですが、けっこう有名な時計修理や販売の店でもみんな説明に苦慮しているようで。「ああ、まだ私のほうがちゃんと理解してる」と思った位、、、苦笑)


エピラム処理をしているところ。

普段あまりご紹介しておりませんでしたが、一連のオーバーホール作業の中にこの工程は必ず含まれます。通常のスイスレバー脱進器もこのように処理しております。エピラム処理することで、薄い膜が表面に形成されます。この膜があることで、油が表面を流れにくくし、ツメ石との接点に油を留めておきやすくする作用があります。

コーアクシャルではツメ石との接点はより小さくなるので、注油さえ必要ないという人がいて、出始めのころは油を差す差さない、差す油はあれが良いこれが良い、そのほか云々と(まあ、時計師同士はこういう論議に花を咲かせるのが好きです)話題のタネを提供してくれる機械でありました。

ウチでは一応、従来のスイスレバー脱進器の処理に準じてエピラムと注油を行う方針です。


輪列の歯車と、コーアクシャル脱進器を地板にのせてみたところ。

通常、ガンギ車は4番車(秒針に相当)の次に来る、5番目の位置となりますが、コーアクシャル脱進器では5番車として歯車をひとつ追加したうえで、6番目の位置にガンギ車がきます。スイスレバー型脱進器より、歯車がひとつ増えます。

振動数も毎時25,200振動と、これもスイスレバー方式の脱進器にはありえない数字で、特徴的です。

見た目にはいつもの機械式時計のムーブメントとあまり変わりない印象かと思いますが、実際に自分の手を動かして組み立てると、とくに最初は意表を突かれるといいますか、「なんだお前は???」と言いたくなるほど作業の勝手が違いますので、まごつきます。

まあ、習うより慣れろで、いつしか慣れてしまうのが時計師の性でもありますが。


アンクルのツメ石とガンギ歯のあたり具合をみる。

通常輪列の場合はガンギ車は時計回りに回転して、入爪は右側で、出爪が左側に位置します。コーアクシャルは6番車となり反時計回りに回転しますので、爪の位置もちょうど真逆となり、左側から入爪で、右側が出爪になります。

しかしまあ、よく考えたものだなあ、と感心します。


バランスまで組み込んで、ベースムーブメントの完成。

バランスのひげぜんまいの改良については、何もオメガに限ったことではなく、ロレックスなども磁化されない新素材を採用したパラ・フレックスひげぜんまいであるとか、メーカー同士がしのぎを削っている分野です。ロレックスの新型ひげのほうも何度もいじった経験はすでにありますが、より従来型に近くて時計師がピンセットで再調整することを前提にした靭性がありました。

オメガのこの新型cal.8500から採用されたSi14ロゴ入りバランスのヒゲは、靭性というものがほとんどないようです。ゼロではないが、例えばしなり具合で言うと、針金と鉛筆の芯くらいに感覚的には違います。針金がぐにゃぐにゃ曲げられるのは靭性に富むからです。鉛筆の芯で同じことやろうとしたら、ポキって折れちゃいますね。あれと同じ理屈です。物性がこれほど違う素材がひげぜんまいに採用されようとは、お恥ずかしい話ながら、まったく予想だにしておりませんでした。

これは時計師による再調整をまったく想定していない、新時代のひげぜんまいであり、バランスであると言えます。折れたらまるごと交換という一択しかないです。ひげは今回なにも調整せず洗浄したのみ。歩度だけ合わせるのにバランスのスクリューは少しだけ回しましたが。なんだかこんな事なら熟練の時計師でなくたって、機械に慣れさえすれば誰でもできるし、高度なひげの調整技なんか必要ない。下手にさわれば折れるだけ。

だんだんと、こうして、時計師の仕事もロボットとAIに置き換えられるのでしょうか。不気味な予兆を感じさせるバランスの登場でもあります。。


文字盤と剣つけに進む。

まったく、田舎者の叔父・叔母をバカにできません。その甥である私も、結局は時代についていけない田舎の時計師になってしまっていたということです。

都会にいれば、こういう新型が出れば時計師同士でギャーギャー騒ぎますから、ついでに情報収集できて、自分の肥やしにできるわけです。独立して田舎に引き込んでしまうと、これはよほど自分で注意して常に最新情報にアンテナを張り巡らせておかないと、あっという間においていかれてしまう。

しかし、今更、若かった頃の都会の生活に戻れはしないし、戻りたいとも思わない自分がおります。

背伸びして手に入れる上り坂は過ぎて、足元に気をつけながら山くだるの心境。

まだ私に残された仕事は、あるはずでしょうよ。


ケーシングまで来ました。ムーブメントの表面の仕上げも、最新の製造技術を反映したような、従来とは似て異なる輝きを放っております。

なあに。

まだまだヤレルゾと。

同じ轍は踏みゃしない。人は必ず過ちを犯す。同じことを繰り返すのはただのバカだ。お利口さんは同じことを繰り返さず学習する。

どこまでいっても、どちらが良いのか、それはわかりきった話。


裏蓋まで閉じて、出来上がりです。今度はちゃんとできましたよ。

そうはいっても、時間は元には戻らない。失った客の信用は二度とかえってこない。

しかし、前を向いて歩いていこう。1日1日、一歩づつ。

なんとか今年も年が越せそうだ。


最終特性

左上)文字盤上 振り角 332° 歩度 +001 sec/day

右上)文字盤下 振り角 336° 歩度 +002 sec/day

左下1) 3時下 振り角 309° 歩度 +001 sec/day

左下2)12時下 振り角 303° 歩度 +001 sec/day

右下3) 3時上 振り角 300° 歩度 +001 sec/day

右下4)12時上 振り角 360° 歩度 +002 sec/day

いつもの例にならいまして一応振り角も出た数値そのまま記載ですが、これはたぶん正確な数値ではないです。(最後とか360だし)歩度だけはどういう理屈でコンピューターが計算するのか、それらしい数値は出ております。

それにしましても、全姿勢差がプラスマイナス1にもならないとは。驚きを通り越して呆れかえってしまいます。まさか、よりによって時計師のお家芸であるひげぜんまい調整をしなかったバランスの性能が、これまでのアトリエ・ドゥの対応してきたどの時計の結果よりも優れていようとは!

実測ですが、10日間やって、日差はまさかのプラスマイナス・ゼロ秒でした。

1ヶ月もやればさすがにズレが観測されるでしょうが、もはやかつてのクォーツ並みです。機械式もここまで来たか、、、。

特性重視の機械式時計ファンにとっては、候補の最右翼となる性能でありましょう。


完成。おじさん、あなたの時計は史上最高の性能ですよ。

「んだべ〜?オラの目に狂いはながったっぺよ」

年明けのおじさんの笑顔が浮かぶようです。

来年の話をすると、鬼が笑います。(笑)